幼美つれづれ草 −第4回− 未知なるであいを阻むもの


インターネット普及で、その検索サイトは私の検索履歴のプライベート情報に基づいて、私の興味・関心の商品やニュース、私のみたいであろう内容や意見を返して来ます。自分に興味のないもの、望まない、嫌いなものは、届きにくく、逆に私が好む同質的なもので埋め尽くされた泡の中にいる様にも感じます。こうした感覚、現象のことを「フィルターバブル」と言うそうです。

「フィルターバブル」は、私が異質なものに触れる機会を失い、居心地の良い泡の内部からしか、世界を見えなくする危険性があると、立命館大学の横田祐美子先生が、新聞紙上で鋭く指摘をしていました。日頃から、何となくは感じていたことでしたが、この記事に出あい、すっきりと腑に落ちました。しかも、そのあとが秀逸です。

「人間にとって思考が活性化するのは、未知のものに出会った時ではないだろうか。それまでの自分を決定的に変えてくれるような出来事は、往々にして否定的な仕方で生じ、驚きや恐怖や挫折感を与えてくれる。傷つくことだってあるだろう。けれども、私を包む泡の閉鎖性を打ち破る契機はそこにある。」

その一方、私は、自分の日常というものを持ち、その中に安住したいとの思いが強いのかもしれません。これまでの成功体験から抜け出せずにいたり、目先の成果に囚われて、未知への扉を開けることを怖がり、泡の中に閉じ込まってしまいがちではないかと、反省させられます。

しかし幸いなことに、未知なるものに出会う時、思考が活性化することを、多くのこども達の様々な姿から教えられてきました。

表現活動の大切な要素に、「心の解放」があります。安住と言う名の束縛からの解放です。それは現実逃避ではなく、現実としっかりと向かい合うからこそ、予定調和ではない、新たにであう新鮮な場を、自分の居場所としていくことが出来るのではないでしょうか?こどもの姿に学ぶ醍醐味は、ここにあるように思えてなりません。

と同時に、泡の中に包まれて、自分の見たいものしか見えない私の思いで、泡から抜け出そうとするこどもの姿を邪魔したり、泡の中へ誘導してはいないかとの、自省の心を、しっかりと持ち続けていきたいものです。

こども達の、未知なるものと出会う意欲や機会を奪うことなく、安心して失敗を重ねることの出来る環境を、しっかり保障していくアートの役割を思うところです。

プロフィール

羽溪 了(はたに さとる)

1960年生まれ

龍谷大学 短期大学部こども教育学科 教授。 (公財)美育文化協会評議員。 京都幼年美術の会会長。 神戸女子大学 文学部教育学科(1993~2011年)専任講師、准(助)教授を経て現職。2021年度より京都教育大学非常勤講師。専門は、現代日本画制作で日展を中心に発表(2011年特選、現在会友)、幼児造形、美術教育、絵本学。この間、教員・保育者養成大学勤務の中、こどもの表現を中心にした現場の教員・保育者主導の学びを積み重ねて来た幼年美術の会(以下幼美)と出あい、全国夏季大学を中心に参加。京都の現在の所属校への移籍を機に、全国幼美を支えてきた京都幼美からスタッフとしてのお誘いを受ける。又同時に、全国幼美の機関紙編集担当として常任委員に就任し、現在に至る。2019年、京都幼美の奥山淑子前会長(現・全国幼美顧問)から会長職を預かり、現在に至る。

保育=こどもの生活の中でアートのなす役割が何であるのか?出来栄え・成果に目や心が移るスケベ心との闘い、又それらを凌駕する、こどもからの実践的学びを共に続けていきたいものです。